最愛の息子よ!ママの声聞こえる?

2011年6月に癌から来る鬱病で母を自死で亡くし、
2016年9月にあと19日で23歳になる長男を統合失調症による自死で突然亡くしました。
絶望の中で何とか這い上がろうとしています。
毎日少しずつでも前に進めたら・・・。
私自身、約7年間鬱病を患っています。

申し訳ありませんが、コメントは自死遺族の方、或いは関係者の方、
又は自死遺族の事をちゃんとご理解して下さる方のみでお願い致します。

戸籍謄本を見るのは辛い・・・。

今日、息子のゆうちょ銀行の凍結&解約の為に必要な書類で
パパに戸籍謄本を役所で取って来てもらいました。
亡くなって、暫くはこの手続きをする気持ちが起きず
腰を上げるのに3ヶ月も掛かってしまいました。


その戸籍謄本には16歳以降から今までの戸籍が載っているものが必要で
嫌でも「除籍」「死亡」という文字が目に入ります。
そういうのを見ると、現実を直視しないといけないから
やっぱり辛いですね。


パパも会社で色々変更の手続きしないといけないので辛いと言っていました。
私の前で泣く事はないけれど、やっぱりパパも辛かったのね。
でも私を支える為に気丈に頑張ってくれてるのかな?


明後日郵便局に行くつもりです。
でも息子の為に積み立てて来たお金を
何で私が相続人になって受け取らないといけないのか・・・。
そんなつもりで積み立てた訳じゃないよ!!
息子が結婚した時とか、車を買いたい時とかの為に
ちまちまと積み立てて来たお金で、息子のお金なんだよ!!


でもとりあえずはゆうちょに口座のある私が受け取るのが便利なので
私が受け取る事にしました。
虚しいです・・・。


その内に保険金の事でも嫌な思いをしないといけません。
私みたいに鬱病で通院していないから、心因性の病気での自死と認められるのか
(アメリカでは病死と認められていますよね)
認められないと、一括で収めたものが、減額して戻って来る事になります。
これも私の保険が満期になったので、1番優しくて、お手伝いもよくしてくれて
勉強もいつも頑張ってる長男の為に、将来使いなさいという意味で入っておいたのに
保険金の受取人が私・・・。
こんなつもりじゃなかったんだよ~!!
長男に使って欲しくて、入った保険なんだよ!!
なのに何で私が受け取らないといけないの?


こういう手続きは本当に現実を突き付けられて、悲しみが倍増してしまいますね。

友達葬

前にも書いた通り、元姉家族とは縁を切った事もあり
他の親戚からバレるのも嫌で、家族4人と親戚は4人だけの参列。
その代わり、息子が人間関係で悩んでいたので
「あなたは1人じゃなかったんだよ!!」という事をわかって欲しくて
絶対に友達葬にしてあげたいと思っていました。
だから病院に向かうタクシーの中でパパから電話があり
「もう無理だ」って言われた時、勿論ワーワー泣いたけど
病院に着いて、息子のスマホとかを受け取ったら、
(几帳面な長男なので、ちゃんとパスワード解除しておいてくれました)
すぐにLINEのグループを探してあちこちに連絡しました。
そして2年間放置状態だった息子のFacebookにも突然亡くなった事を書きました。


私立中高に6年間行っていたので、こういうネットワークは凄いですね。
大学の方も大きいのでそのネットワークも凄かったけれど
部活関係の他大学の方も来て下さいました。
勿論中高の部活での仲良し8人も来てくれました。


お通夜だけで200人以上、
お通夜と葬儀でのべ320人の方が来て下さいました。
私の友達にも連絡したり、中学受験でお世話になった先生にも連絡したり
小学5・6年と担任をして下さって転勤された先生にも
小学校に事情を話して連絡を取って頂き、
とにかくできる事を2日間寝ないで連絡とりまくりました。


私もまさかこんなに沢山の方が来て下さるとは夢にも思ってなかったので
最期になってだけど、こんなに友達いたんだよって息子はわかって
安堵して逝ってくれたと思います。


お通夜は普通30分ぐらいと短いんですが、
葬儀では最後にお花を手向ける時に顔が一瞬見れるだけなので
お通夜の後私が皆さんが帰られる前に、
「良かったら、顔を見て行ってやって下さい」と一言余分な事を言ってしまい
その後凄く長い列ができてしまいました。
斎場の方には申し訳なかったけれど、その後1時間ぐらい続きました。


部活の同輩、後輩、学部の友達とか親の私達に自己紹介も兼ねて挨拶してくれたけれど
やっぱり例の無視という虐めをして来た部活の幹部は誰1人挨拶にも来ませんでした。
絶対に虐めをしたという意識があって、後ろめたかったんだと思います。
未だに何の謝罪もありません。


遺書もありました。

息子を病院から家に連れ帰り、リビングで寝ている時に(ずっと寝ていますが)
血だらけになって脱がされた服を洗いました。
そしたら飛び降りた時に破れたズボンのポケットの中に紙が入っていました。
遺書でした。



オレは鬱病になり
普段の生活もままならなくなりました。
言われたことはすぐに忘れてしまうぐらいです。
でも家族のせいでは絶対にありません。
どうか、自分達を責めないでください。
今まで本当にありがとう。



たったこれだけの短い遺書でした。
鬱病になったいきさつとかは書いてありませんでした。
多分カバンに入っていた紙に書きなぐったのでしょう。
家にあった使用済みの紙の裏に鉛筆で書いてありました。
昨日書いたメモ書きの方が、息子の苦しみがよく伝わります。


自分達を責めないでと言われても
特に私はどうしたって責めちゃうよ!
私が鬱病だから、言えなかったんじゃないの?
大学の後期が始まる1週間前まで私には何も変化が感じられなかった。
パパもそうです。
だから誰も気付いてあげられなかった。


私はずっとずっと自分を責めています。
でも男と女って温度差がありますね。
四十九日法要の時、私は最初から最後までずっと泣いていました。
でもパパ、次男、三男は涙1滴もありませんでした。
それが逆にショックでした。


大切な、大切な1番頼りにしていた長男が亡くなったんだよ!!
私が産んだ、私の分身が亡くなったんだよ!!
男は出産ができないから、私ほどの気持ちになれないって事なの?
最初の子だし、5歳前に高機能自閉症がわかり、
どれだけ将来の事を心配して、大切に育てて来た事か・・・。


男は結果主義ですね。
確かに亡くなった者は元には戻らない。
だから泣いても仕方がないって事なんでしょうね。
こんなだから、この家で生きている私は鬱病が治らないんでしょうね。


実はうちは檀家ではありませんので、葬儀の度にお寺を紹介してもらっています。
そして今回の僧侶は葬儀の時も四十九日法要の時も
悲しんでる私を更に落とし込む様な事を言われ
もうこの宗教に付いて行くのは無理だと思いました。
その事は又次回以降にでも記したいと思います。

夜中に病院から連れ帰ってわかった事

救急に駆け付けた時から、既に冷たくなっていた長男。
検死に時間が掛かり、待つこと数時間以上。
やっと病院を出られたのは午前2時半頃。
既に葬儀屋さんにお迎えの連絡をしてあったので、
きっちり正確に迎えに来て下さった。
パパだけワンコ達を連れて警察の人達と先に家に帰り、
三男と私と、連絡をした長男の中高の時の親友の1人とそのお母さん
そして母の時もお世話になった叔父も午前1時ぐらいまでいて下さった。
まだ時間が掛かると言われたので、その時に帰っていただいた。


この時残った三男も実はひと悶着あり、私がタクシーで病院に向かう時に
三男のスマホに電話をしたら、ちょうどバイトが終わったとこだと。
バイト先から病院は地下鉄で3駅なので、すぐに来られるから
すぐに来る様に言ったら、「俺今から友達と会うから」と拒否された。
タクシーの中だったけれど、思わず叫んだ。
「アンタはお兄ちゃんの命と友達との約束とどっちが大切なの!」と言ったら
渋々友達との約束をキャンセルしてくれた。
とにかく反抗期を一体何年やるの?というぐらいの反抗期中です。(今でも)


友引の関係で長男は家に2日いる事ができた。
ドライアイスで冷やされて、ずっとリビングの真ん中に寝かされた。
私は勿論何度も何度も撫でてはキスして
朝起きたら夢であったらいいのに・・・と願いながらも
あちこちに連絡しないといけないので、長男のスマホを使って連絡しまくり
丸2日間寝ずに連絡しまくった。
元々鬱病からの不眠症なので、起きている事が苦にならなかった。
寝ていない事にも気付かなかった。


前にも書いた様に、元姉とは縁を切っているので、
どこからどうバレるかわからないし、バレたらどうせ「ざまあみろ」と思われる。
だから信用できる親戚と元姉家族と繋がりがなさそうな親戚にしか伝えなかった。


長男は部活を通して人間関係に悩み、将来を悲観してこういう道を選んだという事が
パパが色々メモ書きとかを探し出してわかった。


・こんな状態になった以上、元に戻るのは病気の性質上難しい
 (こんな状態とは欝状態の事だと思います)
・日常生活を上手く送れない
・勉強もままならず、言われた事が全く頭に入らない
・このままじゃ国試受からない
・受かったとしても、どうせ人間関係うまくできない
・誰とも会話できない
・人が宇宙人に見える


これは遺書ではなく、メモ書きの方です。


長男は実は高機能自閉症として生まれ(アインシュタインもそうらしいです)
写真記憶もあり、頭は良かったんですが、人間関係が苦手でした。
でも中高ではいい仲間に部活で巡り合い、大人しい長男の事も受け入れてくれて
いつも試験後には皆でカラオケしたり、スポーツしたり、とても楽しく過ごせました。
彼らも同じく医学部狙いの子が多く、同じ大学を皆目指していましたが
センターを受けて、思ったほどの点数が取れなくて、志願変更をしてしまった子ばかりで
そのまま突き進んだのはうちの長男だけでした。
私は茨の道に行って欲しくなかったから、
「9割取れなかったから、1つランクを下げて受ける」と約束してもらいました。
それに6点足りなかったけれど、本人は「俺は2次力があるから突き進む!」
と言うので、私には止める事はできませんでした。
部活の仲間も同じ様な点数だったけれど、2次に自信がなく
1つランクを下げて受けて合格しました。
長男は宣言通り2次で挽回して合格しました。
でもあの時1つランクを下げて受けていたら、
中高の部活仲間1人と同じ大学だったのに。
1年後には救急に駆け付けてくれた親友もそこに入学していたのに・・・。


私は自分が鬱病で苦しかったから、あの時「ああ、私の子育て殆ど終わった」
と思ってしまいましたが、それが間違いでした。
長男は部活(医学部専用です)で色々経験しなくちゃという思いもあり
自分から志願して幹部の会計をやりましたが、
話題作りも上手じゃないし(そういう関係の本、いっぱい読んではメモしていました)
「超」が付くほどの真面目で、そういうとこが幹部の他の人達には
驚異に写り、鬱陶しかったのでしょうね。
5~6人の幹部だったと思いますが、うちの長男は無視されていきました。
だから1年間は辛くて大変だったと最後の方になって教えてくれました。


幹部(3年秋から1年間)が終わりホッとして、5年生になっても部活が好きだったから
5年生で1番練習に参加していました。
後輩との関係はとても良かったようです。


大学生なのに、5年生は病院実習があるから、たった1ヶ月しか夏休みがなく
その間に家庭教師はお休みだったので、単発のバイトを何回も入れたり
ボランティア活動に4回ぐらい出掛けて、繁華街を掃除したり
献血も趣味かと思えるぐらいにしていました。
真面目な子だったので、6年の3月に受ける国試の勉強も
夏休みが始まるや否や始めました。
家にいる時は勉強か、ちょっとした休憩か、部活(卓球)のサーブの練習か
色々家事ができない私の手伝いをしてくれていました。


そして9月1日に学校が始まり、実習が始まりました。
後期が始まったばかりなのに、その月の7日に死を選んでしまったんです。
どうも8月に人間関係で悩む事が起きた様でした。
部活で幹部に無視されて、将来の人間関係も悲観していましたから
あの虐めとも言える無視がなければ、こんな事は起こっていなかったと断言できます。
でも頭のいい集団はやる事が狡猾です。
水面下で行われており、幹部以外の人間は誰も知らなかった様です。
幹部のキャプテンは同じ中高でしたが、学校でも学力No.1で
多分大学の医学部でもそうだったのでしょうね。
だから誰も彼には何も言えず、既に学生にして派閥があった様なもんだったのでしょう。


大会の遠征も、私が「明日は何時の電車で行くの?」と聞いても
1日前なのに「まだ決まってない」といつも言っていました。
変だな?と思って聞くと、皆と一緒に行きたくないから
違う電車で行きたいと。
誰か1人でも、派閥の壁を破って、長男を誘ってくれていたら・・・。
私は今でも彼らの事が許せません!!

何度も私が死のうとしたのを止めてくれたのに・・・。

私自身5年ちょっと鬱病を抱えています。
それを話すと長くなりますが・・・。


6年前に母が末期の子宮癌になり、前々から延命治療は嫌だと
手術を拒否したけれど、癌細胞が崩れ落ちて大出血し
手術で全摘したものの、その後放射線治療などあり
母は自分が癌になった事がショックで、癌から来る鬱病になりました。


でもまずは癌の治療が先だと思い、36回の放射線治療を受けました。
何度もドタキャンし、その度に母の下の弟(叔父)が迎えに行き
病院まで連れて行って治療を受けさせてくれました。
とりあえず全部終わって、様子を見る時期でした。
でもその頃には既に鬱病にかかっており、
落ち着いたら心療内科に連れて行こうと思っていました。


私には姉がいましたが(今は縁を切っています)、母の事が嫌いで
近くに住んでいたのに、丸々4年間は新年にも会わず、連絡もせず
母の入院・手術で会わないといけなくなり、凄く嫌がっていました。
だから当然退院が決まると、「私は今までの生活に戻るから」と
毎日ママさんバレーとパートに明け暮れて、
私が母の様子をしょっちゅう見に行っていました。


9月に亡くなった長男が焼いてくれたケーキを持って
ホワイトデーに母のマンションに行った事もありました。
あんなにお洒落だった母が昼過ぎなのにまだパジャマのままでした。
髪はボサボサで、物も殆ど話さず、表情さえない。
ただ私に抱き付いて来て、「涙も出なくなったの」と言ってました。


私は鬱病の深刻さを痛感し、元姉に母の様子を見るにつけメールして知らせました。
でも元姉はその都度「わかった」「了解」の返事しかなかったのが辛かった。
母の鬱病の事も、「最近の医者は何でも鬱病って言う。構って欲しいだけ」
と全く取り合ってくれませんでした。


そして母は3回自殺未遂をし、5年半前の4回目には逝ってしまいました。
残された父はパーキンソン病があったので、母のお通夜の日に
私が手配して施設に入れる事にしました。
その手続き、保証人、役所の手続き、あれやこれや全部元姉に押し付けられました。


父が施設に入所し、最初の1ヶ月は施設にいるのに何度も父に呼び出され
呼び出されない日は役所などの手続きに奔走しました。


ハッキリ言って父の事は嫌いでした。
バブルの時代に自社ビルを建てて、バブルがはじけて億という借金があったらしい。
なのにたまたまうちのパパが転職を考えていた時期だったので、
借金の事を隠して「うちに来ないか?」と誘って会社の跡取りとして入れた。
そこで初めてその数億の借金を知って、身内までも騙す父が憎くなりました。
要は銀行が跡取りがいないとお金を貸してくれないから
パパが当て馬にされたという訳です。


でも母がこんな形で亡くなり、そんな父でも哀れに思えて、
結局色々父の為に尽くしました。
母の葬儀や死後の手続き、父の入所など、9割方私がやって来たのに
(昔から元姉には絶対服従だったから、やらされたと言った方が正解かも)
陰で姉に私の悪口を言っていた事が発覚しました。
嫌いな父にこんなに尽くしているのにと思うと、ショックからと
昔からの元姉への恐怖心から、最初はパニック障害になりました。


その後父の施設に行く度に、施設が近付くと動悸がする様になり
頭がボーッとして来て、認知症にでもなったのかと思いました。
ネットで同じ症状の人を調べて、自分が鬱病になったのだとわかりました。


長くなりましたが、母の自死、父の裏切り行為、元姉への恐怖心から
鬱病になり、地球の引力に負けそうになるぐらいで
よく夕飯を作っていても体が重くて、キッチンの床に寝転がっていました。


今のメインの症状は胸の圧迫感で、痛いぐらいの時もあります。
胸に力が入らないので、家事はかなりパパと長男が手伝ってくれていました。
なのに三男(現在大学2年)には「鬱病アピール」と酷い事を言われた事もあります。
心療内科の先生(今のとこは2つ目)には、2人とも
「男4人に女1人はキツイですね」と言われました。
でも長男は優しかった。1番優しかった!!
パパより理解があり、医者にも5~6回ついて来てくれました。


あまりに体がしんどくて、何度も死のうとしました。
その度に「俺が医者になるとこをちゃんと見て欲しいから生きていて!」と言われ
何度も止められました。
なのに私まだ医者になるとこ見てないじゃないの!!
見てないのに、何で私より先に逝っちゃうの?
話が違うじゃないの!!
それなら私も連れて行って欲しかったよ!!


私は長男に医者になってなんて言った事は1度もなかったけど
進学校だったので、周りは医者の息子だらけ。
だから中2の時にもう自分で○○大学医学部に行って医者になると決めていました。
私は「そんな茨の道に進まなくても・・・」といつも思っていました。


なのに何の相談もなく、いきなり死を選ぶって何でなの?
私が鬱病だから相談もできなかったの?
パパにも相談しなかったのは何故?


もう頭の中は「何故?何故?」しかなかった。
とりあえずその日は葬儀屋さんが病院に夜中2時半頃迎えに来てくれて
一旦家に連れて帰り、帰ったのは3時半頃でした。