自死はよくないとわかっているけれど
私も自分が鬱病だから、今までにも何度か未遂していますが
いつも見付かってしまって、屋根に登ってもパパが脚立を持って来て
下ろされたり、家の中のものをなるべく壊さない様に死のうと思って
家具に革のベルトを掛けて首を釣ろうとしたり、漂白剤を飲もうとしたり・・・。
でも、何故かいつもパパに見付かって取り上げられてしまいます。
ついさっきまでいびきかいて昼寝してたから、大丈夫と思って決行したのに・・・。
そしてその度に咎められます。
「ママが死んだら、残ったパパ達は又苦しい思いをするんだよ!
ママを慕ってるワンちゃん達だって、ママなしでは生きていけないんだよ」と。
でも自死を決意した者って、そういう事は考えられない状況だから
そうやって言うのは狡くない?っていつも思ってしまいます。
そういう事で引き止められる内はまだ思い留まる事ができるけれど
愛する者がいるのにと言われても、苦しみから逃れたい一心だから
そういう時はもう何を言ってもダメなんだと思います。
息子だって、私の事を1番大切に思ってくれていたのに
自分が鬱病になってしまっては、鬱病の私を治せないと自暴自棄になっていた様です。
そう、私が鬱病にさえならなければ、まだ食い止められたかもしれないんです。
そして自死を決行した瞬間に、私のとこに戻りたいと思ったと
故人の声が聞こえる友達を介して教えてもらいました。
それでも自死をするその瞬間はそんな事すら考えられないんですよね。
だから幼い子を残して自死をした方とか、婚約者がいるのに、
新婚さんなのに・・・とか本当に色々。
でも自死を決めた時って、その時の苦しさから逃れたいから決めた訳で
周りの事は考えられる状況じゃないんですよね。
なのに「○○はどうするんだ?」とか責任問題を問われても
本人には考えられない事だし、どうしようもないんですよね。
自死を止めるのも勿論大切な事だけれど、何かを引き合いにして
条件みたいにして引き止めるのはやめて欲しいなぁ。
なんて言っちゃダメ?
でも今日は息子の中高一貫校時代の友達3人が息子に会いに来てくれました。
いっぱいお話を聞きたいから、無理を言って5時間もいてくれました。
いっぱい知らなかったお話を聞かせてもらい、
いかにあの時代は素晴らしい時間を過ごせたんだろうと嬉しくなりました。
又すぐに会えるといいなぁ!
神様、こうして息子の友達に会える機会を作って下さってありがとうございます。
どうか彼らを輝かしい未来に導いてあげて下さいます様お願い致します。
イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。